十字軍とは、一般には11世紀末から13世紀にかけて、西ヨーロッパのキリスト教徒が聖地エルサレムを目指して行った軍事遠征を指します。

しかし、十字軍は単純な「キリスト教とイスラム教の戦争」ではありません。

信仰、巡礼、罪を償いたいという願い、東方のキリスト教徒を助ける目的から騎士や諸侯の領土への野心、教皇の政治的な思惑などが複雑に重なっていました。

やがて十字軍という仕組みは、エルサレムとは関係のない地域や、同じキリスト教徒に対する戦争にも使われるようになります。

十字軍のおおまかな流れを見てみてから詳しい流れと影響をみていきましょう。

十字軍のざっくりとした流れ

  • 1071年|ビザンツ帝国が大敗
    マラーズギルドの戦いでセルジューク・トルコに敗れ、西ヨーロッパへ軍事援助を求めます。
  • 1095年|教皇が十字軍を呼びかける
    教皇ウルバヌス2世が、東方のキリスト教徒の救援と聖地エルサレムの回復を訴えます。
  • 1096~1099年|第1回十字軍
    ヨーロッパ各地から軍隊や民衆が出発し、1099年にエルサレムを占領します。
  • 1099年以降|十字軍国家を建設
    エルサレム王国などがつくられ、キリスト教勢力が聖地周辺を支配します。
  • 1187年|サラディンがエルサレムを奪還
    ヒッティーンの戦いで十字軍国家の軍隊を破り、エルサレムをイスラム側へ取り戻します。
  • 1189~1192年|第3回十字軍
    イングランド王リチャード1世らが遠征しますが、エルサレムの奪還には失敗します。
  • 1204年|第4回十字軍が目的から外れる
    聖地ではなく、同じキリスト教国であるビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領します。
  • 1229年|エルサレムを一時的に回復
    神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が、イスラム側との交渉によって統治権を得ます。
  • 1291年|中東本土の十字軍国家が消滅
    最後の主要拠点アッカーが陥落し、聖地周辺に築かれた十字軍国家の時代が終わります。
  • その後|十字軍の目的と対象が拡大
    スペイン、バルト海沿岸、ヨーロッパ内部の異端、オスマン帝国などへの戦争も十字軍と呼ばれるようになります。

十字軍は、ビザンツ帝国の救援と聖地回復を目的に始まり、第1回遠征ではエルサレム占領に成功しました。

しかし、イスラム勢力の反撃によって後退し、しだいに政治や領土、経済的な利害に左右される戦争へと変化していきます。

十字軍以前のヨーロッパとイスラム世界

7世紀初め、アラビア半島でムハンマドがイスラム教を開きました。

イスラム勢力は急速に拡大し、アジアの広い地域、北アフリカ、イベリア半島などを支配するようになります。

一方、西ヨーロッパでは、キリスト教会を中心とする社会が形づくられていました。

11世紀になると、キリスト教への信仰心が高まるとともに、戦いを生業とする騎士や諸侯が各地で争う社会も成長します。

教会には、防衛のための戦争や、奪われたものを取り戻すための戦争を正当とみなす「正戦論」の考え方も受け継がれていました。

キリスト教徒にとってエルサレムは、イエス・キリストが処刑され、復活したとされる特別な聖地です。

一部の人びとは、エルサレムを本来キリスト教世界に属する土地と考えるようになりました。

こうした思想が、巡礼と軍事行動を結びつける背景の一つとなります。

ビザンツ帝国の危機

十字軍が始まる直接的なきっかけとなったのは、東方のキリスト教国であるビザンツ帝国の危機でした。

1071年、ビザンツ帝国軍はマラーズギルドの戦いで、イスラム教徒のセルジューク・トルコ軍に大敗します。

この敗北によって、ビザンツ帝国は小アジアの広い地域を失っていきました。

危機に陥った皇帝アレクシオス1世は、西ヨーロッパのローマ教皇に軍事援助を求めます。

この救援要請が、教皇ウルバヌス2世に大規模な遠征を呼びかけるきっかけを与えました。

1095年、教皇が十字軍を呼びかける

1095年、教皇ウルバヌス2世は、フランスのクレルモンで、東方のキリスト教徒を助け、聖地エルサレムを回復するよう呼びかけました。

参加者には罪の赦しが約束されます。

十字軍への参加は、単なる戦争ではなく、罪を償うための巡礼であり、神のために行う正義の戦いだと考えられました。

群衆は「神がそれを望んでいる」と叫んだと伝えられています。

教皇の呼びかけは、予想を超える反響を呼びました。

ただし、参加者の動機は一つではありません。

純粋な信仰心から参加した者もいれば、罪を償いたい者、名誉を求める者、土地や富を手に入れたい者もいました。

十字軍は、こうした異なる願望を「聖地の回復」という一つの目的にまとめた運動だったのです。

教皇は何を目指していたのか

教皇にとっても、十字軍は聖地を回復するだけの遠征ではありませんでした。

当時、教皇は神聖ローマ皇帝と、司教や修道院長を任命する権利をめぐって争っていました。

これを叙任権闘争といいます。

また、ローマを中心とする西方教会と、コンスタンティノープルを中心とする東方教会は、1054年前後から分裂を深めていました。

十字軍は、東方のキリスト教徒を救援するとともに、教皇が西ヨーロッパのキリスト教世界を指導できることを示す機会にもなりました。

東西教会の関係を修復することや、ヨーロッパ内部で争っていた騎士たちを共通の敵との戦いへ向けることも期待されていたと考えられます。

ただし、これらすべてをウルバヌス2世個人の確定した目的として断定することはできません。

宗教、外交、政治、社会秩序をめぐる複数の事情が重なって、十字軍は始まりました。

民衆十字軍の失敗

正規の軍隊が出発する前に、隠者ピエールなどの説教師に率いられた民衆十字軍が出発しました。

参加者には、農民、貧しい騎士、一般の巡礼者などが含まれていました。

彼らは強い信仰心を持っていましたが、軍事的な訓練や統率は十分ではありませんでした。

道中では略奪やユダヤ人への襲撃も起こり、多くの参加者が小アジアでセルジューク・トルコ軍に敗れます。

ただし、全員が壊滅したわけではなく、一部は後から到着した諸侯の軍隊に合流したと考えられています。

第1回十字軍とエルサレム占領

民衆十字軍に続いて、フランスや南イタリアなどの諸侯が率いる本格的な軍隊が出発しました。

各地の軍勢はコンスタンティノープルに集まり、小アジアからシリアへ進みます。

1098年には、重要都市アンティオキアを攻略しました。

そして1099年、十字軍はエルサレムを包囲し、ついに占領します。

城内に入った兵士たちは、イスラム教徒やユダヤ教徒を大量に殺害し、財産を略奪しました。

聖地を回復するという宗教的な目的と、現実に行われた激しい暴力が同時に存在していたのです。

十字軍国家の建設

第1回十字軍は、占領した土地にキリスト教徒の国家を建設しました。

主な十字軍国家は、次の四つです。

  • エルサレム王国
  • エデッサ伯領
  • アンティオキア公領
  • トリポリ伯領

これらはヨーロッパから海の向こう側にあったため、まとめて「海外領土」と呼ばれました。

しかし、十字軍国家は周囲をイスラム勢力に囲まれていました。

人口も軍事力も十分ではなく、ヨーロッパから送られる援軍に頼らなければ維持できませんでした。

各地には、攻撃に備えるための巨大な城砦も築かれます。

騎士と修道士を兼ねた騎士修道会

聖地や巡礼者を守るために、騎士修道会と呼ばれる組織も生まれました。

代表的なのが、テンプル騎士団とホスピタル騎士団です。

団員は修道士として清貧や貞潔を誓いながら、騎士として武器を持って戦いました。

騎士修道会は、十字軍国家における常備軍に近い役割を果たします。

その一方で、寄進や土地を集めて巨大な富を持つようになり、しだいに政治的・経済的な勢力へと成長しました。

イスラム勢力の反撃

第1回十字軍が成功した理由の一つは、当時のイスラム勢力が複数の国家や領主に分裂していたことです。

しかし、その後は十字軍国家に対抗するため、イスラム側でも統合が進みました。

ヌール・アッディーンに続き、エジプトとシリアを支配したサラーフ・アッディーン、いわゆるサラディンがイスラム勢力をまとめます。

1187年、サラディンはヒッティーンの戦いで十字軍国家の軍隊を破りました。

その後、エルサレムを包囲し、十字軍から都市を奪還します。

サラディンは第1回十字軍のような大規模な虐殺を命じず、身代金を支払った住民の退去を認めました。

このためキリスト教世界でも、勇敢で寛大な指導者として知られるようになります。

第3回十字軍とリチャード1世

1189年、エルサレムの喪失を受け、ヨーロッパでは第3回十字軍が組織されました。

イングランド王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世など、有力な君主が参加します。

リチャード1世はサラディンと戦い、沿岸部の都市を確保しました。

しかし、エルサレムを奪い返すことはできませんでした。

最終的に両者は休戦し、キリスト教徒がエルサレムを巡礼することが認められます。

十字軍は軍事的な目的を達成できませんでしたが、巡礼の道は一時的に確保されました。

第4回十字軍はなぜビザンツ帝国を攻撃したのか

その後も十字軍は繰り返されましたが、遠征の目的はしだいに変化していきます。

その象徴が第4回十字軍です。

本来はエジプトを攻撃して、聖地回復への道を開く計画でした。

十字軍は兵士や馬を運ぶため、海洋都市ヴェネツィアと輸送契約を結びます。

しかし、予定していた人数が集まらず、十字軍は輸送費を全額支払えませんでした。

そこで、ヴェネツィアの利害、ビザンツ帝国の皇位争い、十字軍指導者たちの判断などが重なり、遠征軍はコンスタンティノープルへ向かいます。

1204年、十字軍は同じキリスト教国であるビザンツ帝国の首都を占領し、大規模な略奪を行いました。

その後、コンスタンティノープルにはラテン帝国が建てられます。

ビザンツ帝国は1261年に首都を取り戻しましたが、以前の国力を完全に回復することはできませんでした。

第4回十字軍は、聖地回復という当初の目的が、政治や経済的な利害によって大きく変わったことを示しています。

中東本土の十字軍国家が消滅

その後も遠征は続きました。

1229年には、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が、イスラム側との交渉によってエルサレムの統治権を一時的に獲得します。

しかし、この支配は長続きせず、1244年には再び失われました。

十字軍国家はヨーロッパから遠く、継続的に援軍を送ることが困難でした。

国家同士や騎士団の間でも対立が繰り返されます。

1291年、最後の主要拠点だったアッカーが陥落しました。

これによって、中東本土における十字軍国家は事実上消滅します。

ただし、これで十字軍という制度や思想まで完全に終わったわけではありません。

十字軍はエルサレム以外にも広がった

十字軍という言葉は、しだいにエルサレムへ向かう遠征だけを意味しなくなりました。

教皇が戦争を承認し、参加者に罪の赦しを与える仕組みが、別の地域や別の敵にも使われるようになったのです。

ここからは、聖地を目指した十字軍とは分けて考える必要があります。

スペインのレコンキスタ

イベリア半島では、北部のキリスト教諸国がイスラム勢力の支配地域へ進出していました。

この運動は、レコンキスタ、つまり「再征服」と呼ばれます。

教皇が参加者に罪の赦しを認めた遠征もあり、十字軍に近い性格を持つようになりました。

ただし、レコンキスタを単純なキリスト教対イスラム教の戦争と考えることはできません。

キリスト教国同士が争うこともあれば、キリスト教勢力とイスラム勢力が同盟を結ぶこともありました。

宗教だけでなく、領土や政治的な利害も複雑に絡んでいたのです。

北方十字軍と東方植民

バルト海沿岸やエルベ川の東では、スラヴ人や異教徒に対する北方十字軍が行われました。

目的は、キリスト教への改宗と領土の拡大でした。

この地域では、ドイツ騎士団などの騎士修道会も活動します。

同じ時期には、ドイツ語圏から東ヨーロッパへ人びとが移住し、農地、都市、村、修道院などを建設する東方植民も進みました。

北方十字軍と東方植民は重なる部分がありますが、同じものではありません。

北方十字軍は軍事遠征と改宗を中心とする運動です。

東方植民は、移住、開拓、都市建設などを含む、より広い社会的・経済的な動きでした。

ヨーロッパ内部の異端に対する十字軍

十字軍は、イスラム教徒や異教徒だけでなく、カトリック教会が異端と判断したキリスト教徒にも向けられました。

代表的なのが、1209年に始まったアルビジョア十字軍です。

これは南フランスの異端とされた人びとを討伐する戦争で、エルサレムとは直接関係がありません。

さらに13世紀になると、教皇は政治的な敵に対しても十字軍を宣言するようになります。

十字軍は、聖地を回復する運動から、教皇が認めた敵に対する戦争の制度へと変化していきました。

オスマン帝国に対する十字軍

14世紀になると、オスマン帝国がバルカン半島へ勢力を広げました。

これに対抗するため、ハンガリー、フランス、ドイツなどのキリスト教勢力が十字軍を編成します。

1396年、ヨーロッパ連合軍はニコポリスの戦いでオスマン軍に大敗しました。

これはエルサレムを奪還するためではなく、オスマン帝国のヨーロッパ進出を阻止するための十字軍でした。

オスマン帝国は1402年のアンカラの戦いで、中央アジアの支配者ティムールに敗れ、一時は崩壊の危機を迎えます。

しかし、その後勢力を回復しました。

1453年、メフメト2世がコンスタンティノープルを占領し、長く続いたビザンツ帝国は滅亡します。

十字軍と巡礼

十字軍は戦争であると同時に、武装した巡礼という性格を持っていました。

キリスト教徒の巡礼は十字軍以前から行われていましたが、第1回十字軍がエルサレムを占領した後、聖地への巡礼はいっそう盛んになります。

巡礼は命がけの旅でした。

旅費は高額で、場合によっては1年分の収入に相当したともいわれます。

道中では、病気、事故、盗賊などの危険もありました。

そのため巡礼者は、借金を返し、争いを解決し、遺書を書き、司祭の前で旅をやり遂げることを誓ってから出発しました。

巡礼者は、訪れた聖地に応じた印を持ち帰ります。

  • エルサレム:棕櫚の枝
  • ローマ:交差した鍵
  • サンティアゴ・デ・コンポステーラ:ホタテ貝

十字軍と商業都市

十字軍の遠征には、多数の兵士、馬、武器、食料を東地中海へ運ぶ必要がありました。

この輸送に大きな役割を果たしたのが、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどの北イタリアの海洋都市です。

海洋都市は、十字軍国家やビザンツ帝国から、港、居住区、免税などの商業特権を得ました。

その結果、香辛料、絹織物、陶器、染料などを扱う東方貿易が、さらに活発になります。

ただし、北イタリアの都市は十字軍以前から東方と交易していました。

十字軍がヨーロッパの商業や金融を突然生み出したわけではありません。

十字軍は、すでに成長していた地中海交易を広げる要因の一つになったのです。

イスラム世界との文化交流

十字軍は、キリスト教世界とイスラム世界の敵対を激しくしました。

その一方で、人、物、知識が行き来する機会も増えます。

西ヨーロッパの人びとは、イスラム世界の食文化、衣服、化粧、医学、哲学、文学などに触れました。

ただし、これらの文化交流をすべて十字軍の結果と考えることはできません。

イスラム文化や古代ギリシャの知識は、イベリア半島、シチリア、ビザンツ帝国、地中海交易、翻訳活動など、さまざまな経路を通じてヨーロッパへ伝わりました。

十字軍は、その交流を広げた要因の一つだったと考えるのが適切です。

十字軍は西ヨーロッパをどう変えたのか

第1回十字軍の成功によって、教皇の権威は高まりました。

ヨーロッパ各地の諸侯や騎士を、一つの宗教的な目的のもとに動員したからです。

しかし、十字軍が失敗を重ね、政治的な目的にも使われるようになると、当初の理想はしだいに失われていきます。

ただし、十字軍の失敗だけで教皇権が衰え、国王の力が強くなったわけではありません。

国王との対立、教会内部の分裂、税制、行政組織、軍事制度の発達など、複数の要因が関係しています。

十字軍は、当時進んでいた西ヨーロッパ社会の変化を加速させた要因の一つでした。

まとめ

十字軍は、イスラム勢力の拡大とビザンツ帝国の危機を背景に始まりました。

1095年、教皇ウルバヌス2世が、東方のキリスト教徒の救援と聖地エルサレムの回復を呼びかけます。

第1回十字軍は1099年にエルサレムを占領し、十字軍国家を建設しました。

しかし、イスラム勢力が統合されると、サラディンが1187年にエルサレムを奪還します。

その後も遠征は続きましたが、十字軍国家は衰退し、1291年のアッカー陥落によって中東本土から姿を消しました。

一方、十字軍という仕組みはエルサレム以外にも広がります。

スペインのレコンキスタ、バルト海沿岸の北方十字軍、ヨーロッパ内部の異端討伐、オスマン帝国への遠征なども十字軍と呼ばれました。

十字軍は、単なる宗教戦争ではありません。

信仰、巡礼、贖罪、政治、領土、名誉、富といった多くの目的が重なった運動でした。

聖地を目指して始まった十字軍は、やがて攻撃対象と目的を変えながら、西ヨーロッパと周辺地域に長い影響を残したのです。